~にゃんこ部屋管理人の独り言~

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL10

桜の花をちらほら目にする様になって来ました。もうそんな季節ですね。最近またジャズにハマっています。特にマイルス・デイヴィスのトランペットがお気に入りです。僕がジャズを意識し、惹かれ出したのは中学3年生の時に公開された、角川映画のキャバレーの作中で、メインとなる曲として使用されたレフト・アローンという曲を聴いてからです。テレビのCMで初めて聴いた時には全身に衝撃が走り、本編鑑賞後、完璧に感化され、その勢いで栗本薫の原作も読破しました。小説が織りなす世界観も非常に良かったです。(その後、高校生の時に人生で最初に買ったCDは、宮原学というロックシンガーのアルバムと、マル・ウォルドロンがピアノを務めるレフト・アローンのオリジナル版の2枚でした)

それまでにもジャズというジャンルは知っていましたし、何気なく日常の中で耳にした事はありましたが、その頃の僕にはあまりにも瀟洒で大人びた雰囲気が強過ぎ、自分とは別世界の音楽だと感じていた節がありました。基本的には有色人種の音楽が大好きで、好みの白人アーティストも方向性のルーツを辿れば黒人アーティストの影響を色濃く受けていたり、アルバム制作時やツアーのサポートメンバーに黒人ミュージシャンを招聘するような白人アーティストを本能的に選んでいるようです。ジャズはコルトレーンやソニー・ロリンズ、コールマン・ホーキンスなどのサックスプレイヤーや、ベーシストのロン・カーター、マーカス・ミラーあたりが肌に合いましたね。トランぺッターはサッチモぐらいでした。むしろマイルス・デイヴィスは80年代頃の風貌やモダン・ジャズ界の『帝王』という異名から、ファンクな印象が強く、ジャズとしては食わず嫌いで全く聞いた事がありませんでした。誤解の無いよう説明させて頂ければ、The JB‘sなどのファンクももちろん大好きで、ジャズという枠の中でのマイルス・デイヴィスに対しての先入観が、僕をマイルス・デイヴィスから遠ざけていたのです。   

十数年前でしょうか、ある雑誌の中の記事に目が留まり、筆才に長けたそのコラムニストが、記事の最後に紹介したマイルス・デイヴィスのアルバムを半信半疑で聴いたのがきっかけでした。今まで抱いていたイメージとは裏腹に、心地良いメロディアスな音色で、まろやかに優しく洗練されたマイルス・デイヴィスのトランペットに一発で引き込まれ、しこたま酔いしれました。トランペットと言えば力任せで押しが強い印象があり、ソウルフルな曲でのパート的な演奏には違和感が無かったのですが、いちミュージシャンのソロの楽器としてはどうかと思っていた、それまでの固定観念を払拭するには十分な出会いでした。(サッチモはボーカルも取っているので、よりポピュラーな感じですし)

 

 先月、ある入居者様を施設の車で病院までお連れした際、同乗した介護スタッフにその方が、自分はワルツが好きであることを告げていらっしゃいました。その流れでビートルズもとても好きだとおっしゃられたので、僕もジョージ・ハリスンのライブやジョン・レノンの命日に、ダコタ・ハウスへ足を運んだことがあるとお伝えしました。老人介護施設の入居者様とビートルズの話をする時代になったのかと、しみじみ考えていましたが、高齢者の方々の間でレゲエやソウルにRBの話題がのぼったり、施設で歌謡曲だけでなく、テンポの良い洋楽が普通に流れる時代も、すぐそこまで来ているのかも知れません。(佐世保でも前衛的な老人介護施設では、すでに入口付近のサロンのようなフロアーで洒落た洋楽がかかっています)

 

音楽は世代や人種を越えて通じ合える素晴らしさがあります。歌詞の無い器楽曲からでも、音色に込められた言葉を超越した非言語の想いが伝わってきます。

 

余談になりますが、かなり昔にニューヨークでカーネギー・ホールの舞台に立つ機会に恵まれました。あの場所で歴史に残る数多の物語や演奏の幕が切って落とされて来たのでしょうね。自分たちの身体より大きなスピーカーや、とても操作を覚えきれないような数のツマミやスイッチが付いた、卓状の機材が並ぶバックステージを通り過ぎ、辿り着いたカーネギー・ホールの表舞台。もちろん観客席は無人でしたが、静寂が漂いながらも濃密な時間の記憶を刻んだステージから放たれる、伝統という威厳に満ちた貫禄に、素人の日本人4人組は見事に圧倒され、膝が震え息を呑み、数分間、言葉を失いました。もう、一生巡って来る事のないようなチャンスだったんじゃないかと思っています。

あと、尊敬する叔父にアマチュアバンドで活躍したトランぺッターがいます。大学時代にトランペットにのめり込み、中洲のキャバレーで夜な夜な演奏するうちに学業がおろそかになり中退し、それでもなお趣味で音楽を続けながら叔母と支え合い、3人の子供たちを短大、大学卒業まで育て上げ、現在の居住地、大宮市で活動したアマチュアバンドで、一般のオーディションから選出され、東京ディズニーランドでパレードの演奏を決めてみせた自慢の叔父です。僕とは違い、国際レベルの花道で、きらびやかなスポットライトを奏者として浴びたK叔父さん。今度K叔父さんにお薦めのトランぺッターを訊ねてみたいです。

 


まだ朝晩の肌寒さは残るものの、皆様も春の訪れを楽しみにされて下さいね。ではまた。

 

令和53月某日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL9

 以前、栄町にとあるラーメン屋さんがありました。昔から佐世保にある豚骨スープのストレートな細麺で提供されるラーメンではなく、スープに絡みやすい縮れ麺を何種類かのラーメンとしてメニューに載せられ、キーマカレーのように少しゴロゴロとした挽肉の塊をルーのようにライスの上にかけ、既存のドライカレーとは一線を画す食感を楽しめるドライカレーが絶品のラーメン屋さんでした。当時、祖母のお使いで買いに行っていた煙草のマイルドセブンの値段が200円か220円の時代に、学割ラーメンやドライカレーが1350円と他のラーメン屋さんより安めの価格設定でお店を営まれていらっしゃいました。外人バー街のど真ん中という立地条件からアメリカ人のお客さんも多く、忙しい時間帯にマスターご夫婦が流暢な英語で受け答え、次々と注文をこなす姿に、今までの佐世保のラーメン屋さんでは目にした事のない様子と斬新なメニューに加え、箸を使う料理のお店に外国人が普通に来店するという、新しい食文化の雰囲気を楽しんでいました。お若い頃に横須賀のどぶ板通りで呑み屋さんをなされていらっしゃったようで、達者な英会話はもちろん、その経験が当時の佐世保のラーメン屋さんには無かった発想のお店づくりに反映されたんじゃないかと思います。1人、2人で行く時はカウンターに座りましたが、歴代スタッフのお兄さんやお姉さんが、フレンドリーながらも僕たちを子供扱いはせず、食事の合間にきちんと相手をしてくれたのも楽しみの1つでしたね。

 

中学2年生の時のある土曜日の午後、友達の家からそのラーメン屋さんに4杯のラーメンの出前を頼み、1時間近く配達されなかった日がありました。弓張岳の途中で、お店から出前用の三輪スクーターで10分ぐらいは時間を要する場所でしたので、一応電話口で出前をお願いするにはいつもの圏内より少し離れた家ですけど大丈夫ですか?との確認をし、快諾していただいたものの、あまりの遅さに近所の商店でパンでも買おうかとの代案が頭をよぎりましたが、注文したラーメン代以外にお金の余裕もなく、住所を伝えた手前逃げることはおろか、お店に催促を入れたり、配達に来られた時に遅かったからとクレームをつけキャンセルするという技術も度胸も持ち合わせていない世間知らずなガラスの10代でしたので、成長期の空腹を抱え、気力と体力を削られながらラーメンの到着をひたすら願う時間がいたずらに過ぎるだけでした。「こんにちは!○○で~す!」あの時のマスターの声がどんな福音よりもありがたく身体の隅々まで響き渡りました。

2階の部屋から転がるように狭い階段を小走りながら、4人で玄関まで待ちかねたラーメンを受け取りに行くと「ここやったとですね?!いやぁ、初めて出前に来る場所でしたけん、迷いながらだいぶん探してしもうたとですよ~。お待たせしまして本当に申し訳ありませんでした!!」僕たちはやっとありつける昼食にそれぞれが丼を受け取るため手を伸ばしたのですが、マスターは「いや、おウチば探しよる間に冷めてしもうて麺も延びとりますけん、新しく作り直してきます!」とおっしゃられ、ラーメンを僕たちに渡してくださいませんでした。遠くて分かりにくい場所に出前を頼んだ自分達も悪いのだから、そこまでして下さらなくて結構です。と当時の僕たちが表現できた精一杯の語彙と敬語でマスターにお伝えしたのですが、マスターは笑顔を絶やさずしなやかに嫌味なく僕たちの主張を退け、三輪スクーターに跨り坂を下りお店へと戻って行かれました。

程なくして新しいラーメンをまたマスターご本人が持って来て下さいました。時間的に多分、他のオーダーを後回しにして、大急ぎで作り直して配達して下さったはずです。そのお店のラーメンの味は言うまでもなく間違いありませんでしたが、あの時のマスターの職人として商売人としての心意気と、僕たちに向けて下さった笑顔を数十年経った今でも昨日の事のように覚えています。

 

後から知った話ですが、マスターはお母さんが当時、毛並みの良い客層に恵まれたスナックや、お兄さんは外観から異彩が溢れドアの中は別世界かと見間違うほどのBARを長年経営されており、その前からご両親が有名なとんかつ屋さんも営まれていた、佐世保の飲食業界では際立つ一家のご次男でした。しかし、その様な家系の一員であるにもかかわらず、老舗の暖簾に胡坐をかくことはなく、若い従業員が多かった時期にはマイクロバスを自ら運転し、定休日に三井グリーンランドなどの行楽地に皆さんを引き連れ慰労に出かけたり、お店ではご来店のお客さんへの応対や、手を付けている目の前の料理に全身全霊を傾けるお姿に強い感銘を受け、一社会人としてのお手本とさせて頂き、何度か読み返した『道をひらく』より深く僕の中に刻まれ、色褪せることなく脈々と息づいています。

 

学校を卒業し、港町の小さなBARで働いていた時も大変お世話になりました。現在はもう70歳を越えられ、昔よりご商売の規模を縮小しながらも、常盤町で奥さんとラーメン屋さんを継続されていらっしゃる生涯現役の姿勢も見習う部分満載の生き様です。

久しぶりにマスターが作った料理を食べたくなりました。近々お店に行こうと思います。

 

令和52月某日 にゃんこ部屋管理人

 

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL8

  しばらく口にしていませんが、僕はロス・ヴァスコスというチリ産の赤ワインが大好きです。元々ラム酒やコロナビールなど、中南米大陸産のお酒は大好きでしたが、以前読了した小説の中にこのロス・ヴァスコスの白が登場しました。ミーハー的な興味と我ながら稚拙な食文化の教養を高める意味合いで、すぐさま馴染みの酒屋さんに買いに行きましたが、その時はあいにく赤のミディアムボディしか置いていなかったので、たまたまその赤を試しに呑んだところから、赤いロス・ヴァスコスとの付き合いが始まりました。

 ずっしりとした重厚で野性的な輪郭を持ちながら、気高く上質な酸味が舌の上を通り過ぎ、喉元を流れ落ち、身体の中心へと着く頃には鼻腔の奥に心地よい芳醇な香りが広がる、けれんみの無い余韻に浸れるこのワインをとても気に入っています。とはいいましても、お店ではまだ1度も注文した事がありませんし、家で呑む時もワイングラスにワインを開放し、艶やかな飲み方をする訳ではありません。だいたい僕はワイングラスを持っていません。台所で目に付いたグラスにそそいでグイっと呑みます。数年前の休日に、酒好きの友人がお土産で持って来てくれた赤ワインを明るい時間から呑もうと僕のアパートで昼呑みを開催した時、RBを聴きながら赤のロス・ヴァスコスを紙コップに注いで午前中から乾杯しスタートしたのですが、1時間ほどで赤ワインのフルボトルを2本空け、買い物に出かけるのが億劫であった為、カヴァの白いスパークリングワインを3本配達して頂き、夕方お互いの予定で別れるまでに2人で更にこのスパークリングワインのフルボトルを2本飲み干してしまい、後日に1人で呑んだ最後のスパークリングワインまで含めた計5本のフルボトルの空瓶の処分に難儀してからは、少なくとも僕のアパートで口当たりの良いお酒を誰かと呑むのは控えるようになりました。

 

90年代後半に住んでいたニューヨークでも沢山のワインを呑みましたね。近所の安いアイリッシュ・パブや大衆的なイタリアンレストランなどで、銘柄は覚えていませんが、手頃な価格の色んなワインを楽しみました。むこうのレストランはボトルで注文しても、テイスティングの際に気に入らなければ交換できましたので、割と気軽に尋ねてオーダーする事ができました。ただし1度、ウエイターと感性が噛み合わず、3本返品した時はあちらも苦笑いになりましたし、申し訳なさから会計時には相場よりかなり多めのチップをテーブルに置いてきましたが。

 

自分の手の平に包まれたボトルに期待を募らせ、コルクを抜いて辺りに立ち込める香気を楽しみ、実際にワインをグラスに迎える瞬間は至福の刻。遥か遠い国の畑で収穫された葡萄を、ワイナリーが自慢の樽で心血を注いで醸造し、こだわりを瓶に詰め海を越えて来たという経緯にも浪漫を感じ、十分つまみの1つになります。異国の生産者に醸造家、品評家に買い付け人、物流業者や卸業者に販売店と何人もの人の間を渡り、目の前に置かれたボトルから放たれる無言の自信に似た気品。ワインに限らず、なんのお酒でもそうでしょうけどね。

 

それと僕は食事のお供にお酒を嗜むという習慣がありません。いつも何かしらを口に運びながらお酒を呑みますし、バーベキューなどのイベントで焼いたお肉や魚介を食べながら呑むことはありますが、ご飯時に晩酌という一般的な組み合わせが受け付けない体質の様です。もちろん居酒屋やレストランでは料理と一緒に飲酒いたしますが、本当に料理を楽しむならお酒は呑みません。

お酒と料理の相性はあまり気にせず、ピザに日本酒や焼酎を合わせたりもしますが、美味しいウィスキーにはチョコレート、ビールに大衆中華のマッチングは譲りがたいですね。

 

ワインにしろカクテルにしてみても、お酒全般で言えることですが、1杯のグラスに込められた作り手の情熱と魂がアルコールの度数だけでなく、ドラマティックな感情の部分で人を酔わせる時もあるような気がします。

グラスの中に漂う、誉れ高い香り立つ異空間への招待状。たまには現実から数歩だけ向こうの世界に足を踏み入れ、日常を脱出してみるのも良い時間の過ごし方なんじゃないでしょうか。

 

赤ワインから始まった今回の独り言でしたが、久しぶりにシェリー酒のティオ・ペペをスタッフドオリーブで楽しみたくなりました。

 


お酒に限らず皆さんも引き続き有意義な毎日をお過ごし下さい。

 

    令和52月某日 にゃんこ部屋管理人


 

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL7

 先日の記録的な大寒波の午後、その2日前にご逝去された入居者様Yさんの告別式に参列して参りました。

施設を出る頃から雪が降り始め、雨天時とは違う用心を心がけながら、ワイパーを効かせ車を走らせました。今までに住んだ街でも大雪は経験済みですが、佐世保の生活が染み付くと降雪に対し、やはり免疫が落ちますね。

僕が斎場へ到着した頃には参列者の方々もほとんどお揃いで、ご長男様ご家族、他のご親族にご挨拶を済ませ、もうご会葬者はお見えにならない頃合いぐらいまで時間を見計らい、お邪魔にならない場所へ腰を降ろさせて頂き、ご導師をお待ちしました。

 

式場入口の左手に設けられていた、故人のお元気だった頃や、馴染の皆さんと満面の笑みを浮かべて並ばれているお写真、今は立派になられていらっしゃるお孫さん達が、幼い頃にご一緒されている場面を収めた思い出に目を引かれました。

ほどなくしてご導師が入られ、しめやかな空気の中、司会の方の粛々とした口調での開式。式が進むにつれ所々から沸き伝わる、故人を偲ぶすすり泣く声が、Yさんの生前の生き方を表していたと思います。会場に響く読経や司会の方の進行の声は遠くに聞こえ出し、いつの間にか僕の感情は、眼差しを通して祭壇に祭られたYさんの遺影にくぎ付けになり、頭の中では、Yさんが施設にお見えになられるまでの時間やお若かった頃、そして幼少の時分まで遡り、僕なりの想像力でYさんの人生を巻き戻し、また今日までに時系列を思い巡らすという事を何度も繰り返してしまいました。

 時折、司会の方の合掌の声掛けが区切りとなり、その度に近づく森羅万象、絶対に避けることの出来ないお別れの刻。

 前の席でYさんの旅立ちの儀を見守っていた、4人のお孫さん達も、故人への今までの感謝と尊ぶお気持ちが入り交じり、嗚咽を漏らし最後の時間へ向けてそれぞれの想いが込み上げて来られているようでした。Yさんが皆さんに傾けた真心が輪をかけて、名残の気持ちとしてYさんに手向けられているのでしょうね。

 

ご焼香の時、最前列のご長男様としっかり目を合わせ、頭を下げさせて頂きました。力強くも豊かに包み込むような雰囲気の視線を持った方です。そのお人柄が生み出した1つが、たおやかな奥様との出会いであり、今、ご長男様と奥様の間に挟まれて座り、素直で伸びやかに成長を続けられているお嬢様という、かけがえのない、あたたかなご家庭なんじゃないかと思います。もちろん他のご兄妹やお孫さん達も温もりを感じる素晴らしい方々です。その命の系譜の源がYさんであり、先にあちらでYさんを待っていらっしゃる旦那様です。

 

全員がご焼香を終えると照明が落とされ、降りてきたスクリーンに映し出されたのは、活動的だった頃のYさんの日々が綴られた貴重なお姿。炊かれた煙の香りが漂う中、一青窈の名曲『ハナミズキ』に乗せスライドされて行く、Yさんが生きてこられた大切な証。お仲間やご家族との、在りし日の朗らかで優しい時間。可愛がっていらっしゃった黒い中型犬とのご様子にしても、かなりガッツリと全体的に身体を抱きしめていらっしゃったようでしたが、犬の方はまったく嫌がるそぶりがありません。これもまたYさんが惜しみなく、周りに注がれていた愛情と信頼の強さを物語った1枚だったのではないでしょうか。

曲がエンディングに近づくにつれ、増していくYさんへの想い。各々の言葉は違えど、式場内のYさんへ向けられている気持ちが同じであることは肌身に感じました。

曲の最後の数十秒、旦那様とお2人で仲睦まじく歩くお姿を正面から捉えたいつかの日。

数分間に色濃く凝縮された、お1人の人生の重みと深み。

 

照明が戻り出棺の儀へと。

ご出棺前のYさんの亡骸を包むお花を、皆さん何度も繰り返し飾られていらっしゃいました。

色白の綺麗なお顔に似合う、華やかな彩りに富んだお花の飾りつけ。

 

ご出棺の際はご身内の方々が敬拝を込めて棺を運ばれ、霊柩車の後方へYさんを大事に納棺されました。外は佐世保の街では珍しい雪の舞う真っ白な冬景色。

最期に手の平を合わせ、Yさんを乗せた車が雪の中へ消えて行くのを見届け、お孫さん達にご挨拶をし、斎場を後にしました。

 

お集まりになった方々のYさんへの想いが僕の心の針を大きく揺らし、最初はお別れに参ったつもりでしたが、最期はお1人の方の新しい旅立ちをお見送りに来た気分に変わってしまいましたね。告別式でこのような例えは不謹慎なのかも知れませんが、風雪の中、玄関の外までお見送りしたにもかかわらず、温かく敬虔な気持ちになれた、とても素晴らしいご葬儀だったと思います。ご親族の皆様、本当にお疲れ様でした。

Yさん、僕たちの元にお越し頂き本当にありがとうございました。あちらで旦那様とゆっくりお過ごしください。

 

令和51月某日 にゃんこ部屋管理人

 


 

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL6

 年明けから通常の毎日を取り戻しつつある今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?クリスマスを過ぎたぐらいから晴天続きだった佐世保の街も、久しぶりに雨の夜を迎え、寒さも少し和らいだ気がします。

   昨日、年末に入って来られた入居者様の代理として、レンタル用品の返却作業や、ご利用されていらっしゃったインフラサービスの解約工事の立会いなどで、その入居者様のご自宅へ訪問させて頂きました。

 

朝方まで降っていた雨はすでに止み、昼過ぎに施設を出発しましたが、午前中はまだ厚く覆われていた雲も、所々にパステルカラーの冬の空を覗かせ、現地まで気持ち良く車を走らせる事が出来ました。幹線道路から横道に入り、車1台がなんとか通る細い坂道を走り抜け、少し高台にあるその方のご自宅へ着いた頃には、ゆっくりと南へ流れる雨雲の大きく割れた部分から、西へと傾きかけた太陽も顔を出し、場所によっては垂れこめた灰色の空から、幾ばくかの光の筋が街に降り注いでいました。10数分前には到着しましたが、業者さんのお1人はもうお見えになられていました。近隣の方々の差支えにならない場所にお互いの車を停め、自己紹介とご挨拶を済ませ、開錠し入居者様のご自宅の中へ。玄関先に溜まった郵便物を2人で拾い上げ整理し、奥の部屋へと進みました。

 業者さんの作業の妨げにならないように立ち回りながら室内の現状をカメラに収め、一通り撮り終えると今度は建物周りの状況や環境を記録しに。

 

玄関を出て周辺を見回すと、目に飛び込んできたのは琴線をくすぐる非常に懐かしい感じの原風景。主要なバイパスからほんの数分入っただけの場所なのに、多分、昭和中期頃から手つかずの部分も残っている町の様子に強く心を惹かれました。狭い車道兼歩道の坂を挟んで立ち並ぶ、懐旧の念を誘う程よく年季の経った家屋たち。その間から垣間見える、坂の向こうのSSKの巨大な工業用クレーン。登って来た坂の下から吹いてくるノスタルジックな空気を含んだ令和の冬の風。すぐさま目の前の景色を瞳の奥でシャッターを切り、思い出のSDカードに落とし込みました。次の瞬間、瞬時に頭を埋め尽くした郷土を代表する作家の原作で、60年代の佐世保を舞台にし、実写化された2本の映画の世界観。同時に脳裏に浮かんだのは自分が生まれる前の、直接見たことが無い原色を帯びたその時代の色彩。

2本の映画は『sixty-nine』と『坂道のアポロン』


50年代、60年代の頃の佐世保には、各地から腕を磨きにあらゆるジャズミュージシャンやバーテンダー達が集まり、しのぎを削りプライドをかけ、毎晩競い合っていた。と年配のあるバーテンダーの方からお聞きしたことがあります。佐世保は外国文化が流れ込み、同じ港のある街でも長﨑、横浜、神戸などとは一線を画す所がある気がします。華やかで瀟洒な西洋文化に彩られた街とは違い、戦闘の合間の休息に訪れた兵士たちの安堵や次戦に備えての緊張など、感情の緩急が目には写らない塗料となって、街のいたる所にその時の気持ちを塗り重ねては去って行き、形成された文化の街ではないかと思います。そういう背景が一時期、佐世保のとある一画をジャズや泥くさいロックが似合う街にしたのかも知れませんね。熱く混沌とした時代も今となってはうたたかの夢の後。ですがこの街の歴史に染み付いた、時代のそんな1節が僕はとても大好きです。そういった点では横須賀のどぶ板通りの付近も似たような雰囲気を醸し出していました。(横浜の洗練された、きらめく空気とは違う独特のうねり)

 

再度ご自宅へお邪魔し、作業の進行具合を確認し、先ほどは業者さんのお仕事を阻んでしまう為に写せなかった室内の方向にレンズを向け、また表に出た頃もう1組の業者さん達が見えられました。

1人の人間が普通の生活を営むために、多数の業種の様々な人たちが関わる事実を改めて実感いたしました。

先に屋外の業者さんの作業が済まされ、お礼を述べお見送りし、それからしばらくして室内作業の業者さんのお仕事が終わられました。2人で玄関の施錠を確認し、別れ際に業者さんが、家主である入居者様の近況を訊ねられましたので、施設内での僕が把握する範囲の状態をお話すると、眼鏡の中で優しく眼差しを細め、柔らかい誠実な口調で「良かった。私の事を覚えていらっしゃるか判りませんが、くれぐれも宜しくお伝えください」とおっしゃられました。必ずお伝えする事を約束し、それぞれの車に乗り込み、ご自宅を離れる際に窓越しの会釈。ハンドルを切り、時空の感覚が軽く麻痺する坂の途中の辺りからいつもの街へ。

 

今朝の朝礼後にその入居者様の居室を訪れるも、おやすみになられていらっしゃったので、その時間は遠慮し、終礼後にもう1度訪室。ベッドに横たわりラジオ放送を楽しんでいらっしゃいました。ノックの後に失礼しますと声をお掛けし、ベッドの脇まで近づき、業者さんからのご挨拶をお伝えすると、ご自分で軽く上半身を起こし、お顔をほころばせ、覚えているとのこと。その業者さんに良かったら1度、顔を見せに来てくださるよう言って欲しいとおっしゃられたので、○○さんはお忙しそうですし、こんな時期(コロナ禍)ですので、ご希望に応えきれないかも知れませんが、明日お話しておきます。とお引き受けし、夕日が差し込む暖かな居室を後にしました。

 


考えてみれば明日は祝日ですので、明後日の朝礼後1番に○○さんの携帯電話に連絡し、本日の夕刻のやり取りをお伝えするつもりです。

 

     令和51月某日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL5

新年あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、ぶり返してきたコロナ禍の拡大や諸事情の中、以前よりかなり制限を要される年末年始になられた方も大勢いらっしゃるかと思いますが、せめて寸刻の間だけでも浮世の憂さを忘れ、新しい1年に希望を巡らし、親しい方々とのおめでたい数日を楽しんでいただけたらと思っております。 


学生時代は誕生日や新年の「おめでとう」という声掛けに、(たった1年また同じ日の来ただけで大袈裟かね)などと考えておりましたが、いざ自分の足で世の中を渡り歩いてみると、その1年をやり過ごすことの難しさや厳しさを肌身で痛感させられました。(逆に人生の素晴らしさや楽しさも、存分に満喫させてもらう時も多々あります)医学や生活水準が現代のレベルまで達していない時代は、抗生物質などによる投薬や高度な医療処置、食生活や衛生面などにおいて、健康面での生命的な安全の確保、また社会的には整備途上の法制度により、法治の及ばない環境で外敵からの保身など、1年いちねん人が生き抜いて行くという事が今より非常に困難だったと思います。そんな中で身近な人がふたたび1つ年齢を重ねたり、共に新年を迎えれることの喜びはひとしおだったのでしょうね。(僕にしてみれば、見かけなくなった近所の猫を数日振りに見つけただけでも大喜びです)これらの価値観は万国共通で似たような所がある気がします。

 

一年の計は元旦にあり。大それた志や物事を抱き成し遂げようとは考えておりませんが、たった1つだけ貫こうと思うことがあります。〝悩んでも、決めたら絶対に後悔しないように頑張る〟こと。たまたま年末にネットニュースで読んだ、歌手ジュディ・オングさんに関した記事の中で目に止まった言葉です。当時のジュディ・オングさんはお休みの予定が半年先になる程に多忙な毎日をお過ごしだったようです。ある時期、ハリウッドから『将軍 SHOGUN』という作品のヒロイン役にとのオファーが舞い込み、その内定を快諾されたのは良いのですが、いっこうにハリウッド映画の撮影は始まらず、そんな矢先に発表された楽曲『魅せられて』がスマッシュ・ヒットを樹立し、本業である歌手としての活動とのスケジュール調整が難航し出してこられたようでした。

 

〝どちらの仕事を取るべきか〟

 

究極の選択を迫られ、悩むジュディ・オングさんにその時お母様がかけられたお言葉が「どちらかに決めたら、その選択は絶対に後悔しないこと。自分で選んだ道は後悔しないように頑張りなさい」だったそうです。その一言でジュディ・オングさんは、意を決して歌い手としての道を選ばれました。今でも「もし、『将軍 SHOGUN』に出ていたらハリウッド女優になっていたんじゃない?」と言われる時があるそうです。たらればの話で先のことは誰にも分かりません。ですがジュディ・オングさんは「間違いなく分かるのは、自分で選んだ道を生きて、今を幸せと思えたなら、それで良いんじゃないか」とお考えのようです。どなたでも今までに何度かは、仕事やプライベートで人生の大きな岐路に立った経験があられたかと思います。僕自身も20代の頃、米国市民権取得などのチャンスに恵まれましたが、アメリカ人にならず極東の島国の地方都市で介護施設に従事し、自分のライフスタイルを突き進むあまり離婚をし、築50年以上の古いアパートで過ごす毎日ですが、後悔の欠けらもありません。これからの人生も、波乱万丈ながら行きたい場所へ1歩1歩自分の足で歩んで行くのだろうと思います。(ご助言はしかと肝に銘じます)


別に新年を祝う曲というわけではありませんが、寒気に包まれた年の初めのような季節には、新たな節目の歌としてベット・ミドラー不朽の名曲『The Rose』がとても良く似合う気がします。(個人的にはYouTubeの動画配信で聴いた、Ai Ninomiyaさんカバー時の和訳が1番しっくりきました)


京都の清水寺で書き下ろされた、世相を表す去年の漢字1文字は『戦』でしたが、今年は夢に満ち溢れ、幾多もの光明に照らされるような文字が発表される世の中になれば嬉しいですね。

 


新年のご挨拶や今年の抱負から少し脱線した感も否めませんが、軌道修正をいたしまして、この兎年も皆様の無病息災、益々のご躍進とご清祥に恵まれることを当法人一同より切に願わせていただき、これを恭賀新春のご挨拶とさせて頂きます。

全職種のスタッフ一丸となって、入居者様やご家族様に満足度を高めていただけるよう、各自さらなる向上心で挑む所存でございます。本年も豊寿会一同、皆様からのご慈愛のこもったご指導ご鞭撻のほど心よりお願い申し上げます。

 

                                                                                                                                                                                                                            令和51月吉日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL4

ついこの間、年賀状を出した気がしますが、早いもので身の回りにあるカレンダーのページも残すところ、あと1枚になってしまいました。穂先まで豊かに実り、初冬の風に吹かれ優雅になびくススキを見かけたり、紅葉で色づいた街路樹の落ち葉が目に付きはじめると毎年、秋から冬を意識し出します。今年も様々な方たちの広範囲に渡るご厚情に恵まれ、お蔭様で豊寿会も無事、年の瀬を迎えることができました。職員一同、心から感謝をしております。皆様にとって令和4年はどんな1年でしたか?僕のほうは、歯に衣を着せぬ物の言い方で差し支えなければ、今年も数人の方とのお別れを経験し、毎回言い尽くせぬ気持ちを覚えながらも、また新たに出会った方々と歩を進める。そんなご縁が循環しながら1つの輪となって転がり、なんとか今年も師走に漕ぎ着ける事ができた1年でした。目の前にいらっしゃる方々の醸し出される生き様を肌に受け、それを糧に己を鼓舞し、〝昨日より1歩でも前へ〟の精神で精進させて頂いております。

思い起こせばこの数年、国内外で明るい兆しのニュースはあまり聞きませんが、なんでしょう、目にする入居者様たちやスタッフの屈託のない破顔や楽し気な笑い声が耳に届いているおかげか、最近の麗しくない浮世の流れはどこ吹く風。といった感じの毎日です。(姉妹施設のニャンズも絶好調です♪)

 

20代の頃、マンハッタンのセントラル・パークの西側をてくてく歩いて、アッパー・ウエスト・サイドに建つタゴタ・ハウスを訪ねた事があります。99年の128日のことでした。建物入り口の鉄門が開いていたので、短い回廊を通りエントランスの広場に入ろうと試みましたが、すぐに中の守衛さんに気づかれ制止されました。上品で聡明そうな黒人さんでした。僕が訪れた時間はもう献花など片付けられていましたが、その守衛さんに昔ジョン・レノンが撃たれたのはここか?と質問すると、そうだ。と答えてくれました。〝ジョン・レノンが崩れ落ちた場所〟確かにアップタウンで閑静な一画ではありましたが、世界有数の白熱的な国際都市の夜に、時が止まったような感覚に包まれましたね。もちろん射殺現場など縁起の良い場所ではないのですが、ロック好きの僕にとっては、実家の墓や愛猫の納骨堂と同様に厳かな聖地。学生時代から聴き惚れ、憧れた伝説のミュージシャンが息を引き取った最後の場所。青森県と同じ緯度のとても寒い街でしたが、興奮で舞い上がり、手の平が軽く汗ばんだ記憶があります。個人的な事柄でしたが、12月にはそんな思い出もある感慨深い月間です。

 

 年末と年始。時計の針が1コマ進むだけで、もう気持ちの持ち方が変わってしまう気がします。12月に入ってからの今年1年の振り返りから、午前零時を回った瞬間に湧き上がる新たな年への希望や抱負。たった1日の区切りですが、過去と現在と未来への境目。どんなサイの目が飛び出すか想像もつきませんが、先月23日にカタールで熱戦が繰りひろげられた、サッカーWカップ杯での対ドイツ戦で、森保監督率いる青きサムライたち日本代表が見せてくれた、2-1での勝利に続く27日のコスタリカ戦では0-1という敗戦を喫し、その後、日本列島が悲哀感で漂う中におこなわれた、これまた勝ち星の可能性が果てしなく皆無なスペイン戦で巻き返した、まさかの逆転勝利を収めトップで決勝リーグ進出と、(今月6日のクロアチア戦、PKでの1-3と勝敗の上では残念でしたが、世界を相手に戦った内容としては、高き壁を乗り越えた申し分のない大健闘だったと思います。個人的には補欠でも三浦知良選手を是非とも代表メンバーに起用して頂きたいですね)たった数日間で日本国民の感情の起伏を遠慮なく振り回してくれた快挙に加え、13日に東京有明アリーナで行われた、井上尚弥対ポール・バトラーの世界バンタム級4団体タイトル統一戦で、67日に行われたWBC世界王者ノニト・ドネアとの再戦での2TKOに続き、井上尚弥チャンピオンが撃墜量産兵器とも言える右ボディブローを放ち、11KOでWBOのベルトをも手に入れた偉業にと、最高のパフォーマンスをリアルタイムで味わうことの出来た幸運に、同じ日本人として誇らしく、今から来年が非常に楽しみです。ちなみにプロボクシングでメジャー4団体統一を果たした世界王者は、井上尚弥さんで世界中で9人目、アジア人からは初、しかも4団体世界タイトルを全てKOで奪取したのは史上初だそうです!井上尚弥チャンピオンは日本の宝から東洋の至宝へと昇華した名王者だと思います。(井上尚弥王者のこの記録は、少なくとも東洋圏内では今後100年は破られないのではないでしょうか)

 

 

この1年も関係者各位の皆様には大変お世話になりました。慌ただしくお忙しい時期だとは存じますが、ご無理をなされませんよう有意義な年末を過ごされ、新しい年をお迎え下さい。令和5年も皆様にとって、さらに栄えあるご多幸に満ちた1年になられます事を豊寿会一同、心よりお祈り申し上げます。

 

                                                                                                                                                                                                                          令和412月某日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL3

今月、118日火曜日は、実に422年ぶりに日本でも皆既月食と惑星食が同じ夜空で観測できた、数百年に1度の貴重な日でした。皆既月食は数年に1度話題に上りますが、惑星食とのコラボとなるのは大変珍しく、いくら熱望しても人によっては一生のうちにお目見え出来ない世代の方々もいらっしゃいます。今の世に生を享けた僕は、運よく太陽系を舞台にした、歴史的な天体ショーを肉眼で捉えることが出来ました。今回の惑星食は天王星食、前回のそれは土星食、また次回の322年後の西暦2344年は422年前と同様の土星食ということです。月食の方は施設から帰宅中の道すがら、部分食の始まりや、皆既食の始まりなどを運転のかたわら、時間差で目に焼き付けることが出来ました。天王星食の方は1度アパートに戻り、準備をしてジムへ出かけ、汗を流して帰り道に寄ったスーパーの駐車場で、出現開始の状態みたいでしたが観測に成功しましたね。次のこのスペクタクル満載の天体イベントは、どんな時代なのか皆目検討もつきませんが、前回は国内でいえば安土桃山時代、本能寺の変の2年前だったようです。織田信長も戦国の夜空を仰ぎ、天下統一を渇望し、野望に燃えていたのかも?と考えれば、惑星間の軌道や回転周期などといった科学的な視点だけではなく、時空を超えたドラマを感じずにはいられません。(実際には当時の人たちが目の当たりにしたら、天変地異でこの世の終わりかと騒ぎになっていた。というほうが正解かも知れませんが)けれども、これらの出来事も興味のある無しに部類するのか、スーパーの駐車場をはじめ、少なくとも周辺で、僕の視界に入る範囲では夜空を見上げ、悠長に観測を楽しんでいる人は1人もいませんでした。限りない宇宙空間で、天文学的数字にのぼる星の数々。気が遠くなる程の距離で点在するあらゆる銀河。まだ見ぬ人類を超越した次元や、種族の存在に思いを馳せると、壮大なロマンが頭をよぎり、空想の彼方で自分だけの小宇宙を創りたいような気分になりますけどね。しかし、いつの日か遭遇するやもしれない、地球の文明を凌駕するテクノロジーを備えた知的生命体が、僕たちに脅威をもたらさない事を、にゃんこ大明神様に今からお祈りしときます。

 

天の川銀河が所属するこの宇宙は、ビッグバンから約138億年の歳月というのが1番ポピュラーな説になっています。僕たちが生息する地球は誕生から約46億年。夜空の月や星々は、いにしえより大地をやさしく照らし続け、人類に恩恵を授けるとともに、様々な場面に立ち会ってきたのでしょうね。

 

これを書いている今日の朝方などは、(1112日現在)月の明かりがとても鮮烈で、まだ暗い時分に目を覚まして、外に干してある洗濯物を取り込もうとした時、物干し竿とベランダの手摺りが光っていたので、眠っている間に雨が降ったのかと慌てて夜明け前の空に目を向けると、煌々と光を放つ、月暈をまとったきれいな月が晴夜の空に浮かんでいました。月を囲むようにまわりで淡く瞬く星の群れ。その月の雫は裏山に自生している草木の葉先にもこぼれ落ち、いつもより力強い月明かりの効力なのか、あたり一面がきらきらと輝き、小さく揺らめいて映る裏山の斜面は、さながら天然のイルミネーション。矢のごとく駆け抜ける日々の中で、しばしの非日常。

 

早朝から古いアパートの窓辺でちょっとした幻想的な光景を楽しめましたが、いま思えばその時に、ドビュッシーの『月の光』を流せば効果倍増だったのでは...いずれにせよ、もうすぐ日が昇る僅かな時間帯に贅沢なひと時を過ごす事ができました。

 

SDGsの活動などが提唱されている昨今、11人が一層の自覚を持ち、前向きな姿勢で身近なところから取り組み、この先もこのような景色を楽しんで行きたいですね。

 

次の皆既月食と惑星食を観測可能の時代でも、僕はこの国に男として生まれ、その時の情景も日本語で思いを巡らせ、綴ってみたいと思っています。

 

令和411月某日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL2

 僕がこのファミーユに転籍してきたのは、開設時より1年半後ぐらいだったかと思います。それからこれまでの間、数十名の方々の入居希望の際に、ご家族や親しい方々から、対象者でいらっしゃるご本人の様々なお話を伺わせて頂きました。病歴や現在の身体状況、生活歴から近況の日々の過ごし方、アレルギーや嗜好の部分に関わる個人的な基本情報はもちろんの事、以前の娯楽から、ただいま楽しみにされていらっしゃる時間の過ごし方にいたるまで、一掴みはおろかほんの一摘みでも、業務上の情報というより1人の方を真剣に理解し、関わる人間の責務と考え毎回その席についております。

 十人十色どころか千差万別な人生模様。一通りの内容を聞き取った後の、ざっくばらんな世間話の時間帯に、対象者の方の違った方向からの人となりをお聞きし、それが意外と心に焼き付き、仕事を通り越して個人的に興味を持ってしまう方もいらっしゃいます。また入居された後、その人の日常がまだ今とは比べものにはならないほど活発だった頃のお話を、ご家族またはご本人の口から聞きおよび、調査票の十数行、数百字の文字の羅列では到底はかり知れない、人様の人生の深さと重みを一身に受けてしまう時もありますね。


 7.8年ほど前まで僕は実家の墓参りに、もう長いこと行っていませんでした。(可愛がっていた愛猫の墓参りには、佐世保在住の時は18年間、毎月欠かさず手を合わせに通っていましたが)周りからのかなり強い諭しと、祖父の行きつけだった、NHKでも特集を組まれた、24時間営業の老舗食堂の女将さんや、この時より数年前になりますが、これまた老舗の24時間営業のお好み焼き屋さんのお姐さん、僕が20代前半の頃にお世話になっていた職場のオーナー達からの言葉が後押しとなり、成人してから初めて毎月定期的に墓参りをするようになった次第です。

 ある晩、呑み歩いた後、1人になって家路を辿っていた夜、店の前を通りかかり懐かしさからふらりと立ち寄った、生前の祖父に何度か連れて行ってもらったことのある老舗の食堂。僕が子供のころと変わらず、無駄な装飾や媚びる姿勢がまるでない店の作りや接客態度。(置いてあるテレビの厚みは薄くなっていましたが)変貌する街の真っただ中にありながら、イスに腰を掛けると一瞬で21世紀から昭和に引き戻されたノスタルジーな空間。たまたまお客さんとして居合わせた、生まれ育った場所のご近所さんから数十年ぶりに声を掛けられ、女将さんから祖父の孫であると分かると教えて頂いた、僕が知らなかった祖父の世間での振る舞い。寺内貫太郎を地で行く強烈なキャラクターだった祖父の家の外での意外な一面。


佐賀市の旧福田家や旧古賀銀行など、明治初期から大正時代にかけて隆盛を誇った名家や、九州経済の中枢を担った由緒ある歴史的建物群なども軒を連ねる、時代を遡るような錯覚を覚えてしまう無数の細い路地がとても印象的な、旧城下町の界隈に佇む我が家の菩提寺。

小さな山門をくぐると広がる、幼い頃から変わらない景色。以前はこのお寺のアイドル、黒猫のゴマちゃんがお出迎えしてくれる日もあったのですが、ご住職の奥様から伺ったところ、何年か前に19歳の天寿を全うし、虹の橋を渡って行ったとのこと。それもまた諸行無常の1つと踏まえ、彼と触れ合った時間をきちんと思い出に刻んでいます。(しばらくはゴマちゃんが旅立った事を知らずに、同じ様な黒猫ちゃんがお寺の敷地内を堂々と闊歩していたのでゴマちゃんかと思っていたら、その子はゴマちゃん亡き後に入り込んでいた居候猫ちゃんでした)

 実家の墓の前に立ち、側面に連なる祖父母以外の知らないご先祖様たちの名前を目でなぞり、この人達の系譜が今この場に立つ自分なのかと考えると、毎度の事ながら言い知れぬ感情が湧いてきます。

 大正、昭和、平成という3つの年号と満州と佐世保。(祖母にしてみたら、それに加えて故郷の姫路)時代をまたぎ、大望を抱いて海を渡り、遥かなる大陸でも熱く懸命に生きた夢追い人の2人が静かに眠る古い墓石。

 随分と前に、爪切りを借りようと祖母の化粧台の引き出しを開けると、そこにそっとしまわれていた陸軍服に身を包んだ、満州での祖父の古い写真。服装の作りから、歩兵の一兵卒だったようですが、仲間の方々と誇らしげに、たくましく明るく笑う青年だった頃の祖父の姿。数えきれない時節を重ね、セピア色に染まった祖父の視線の先には今より若かった僕がいました。

まだ実際にお会い出来ていないのですが、齢70歳を超え、杖でご自分を支える状態でありながらも、今も年に数回、小城市より祖父母の墓前に生花を手向けに通って下さっているK様、いつも本当にありがとうございます。また26年前の祖父の葬儀の際に、申し合わせて駆けつけて下さった、祖父と同じ職場だった皆様、本当にありがとうございました。

セピア色の写真を見つけた頃や祖父の葬儀の年、及びK様の存在を存じあげた時期などの時系列に多少のズレはありますが、順番を少し入れ替え、全てを線で繋いだら、スケール感は足元にも及ばないものの、むかし映画館で観た、チャン・イーモウ監督の名作『初恋のきた道』を思い起こしました。

 

 コロナ禍前は、ほんの一声だけでも掛けたいから。と毎日お母様にお会いに来られていらっしゃったあるご長男様。最近101歳の百一賀を迎えられた入居者様のご家族で、直接手を握ったり、施設の中に入ることは無理だと分かっていらっしゃっても、ひ孫さん達を含め10人程の人数で玄関先のドアの向こうまでお祝いを伝えにみえられたご一家。窓ガラス越しではありましたが、久しぶりに次女様と対面され、感情面や記憶力の範疇において、判断力が低下されているはずの状態にもかかわらず、涙を浮かべられた入居者様。

 

どなたの人生もかけがえのない1つの大切な物語。   

どなたもその物語の重要な主人公。

 

 それぞれの物語が序章なのか中盤なのか、それとも結末間近なのかは今はまだ判りません。

 ただ、すべての物語で最期のページが閉じられる終焉のその時、個人的なプライベートの面でも、職場のチームの一員としても僕自身、僕たち全員が関わり本当に良かった。と思って頂ける毎日を心がけて過ごして行きたいですね。

 

僕は自身の物語のエピローグで、何を見つめ何を耳にするんでしょうね。

 

 

   今日のところはこの辺りで自分の物語に栞を挟み、表紙を1度閉じようと思います。ではでは。

     

令和411月𠮷日 にゃんこ部屋管理人

~にゃんこ部屋管理人の独り言~ VOL1

 開設から7年目の秋、当ファミーユも時代の潮流に乗り、今月よりホームページを立ち上げさせて頂く運びとなりました。これからも利用者様の毎日に寄り添い、平穏無事にお守りする事はもちろんの使命と心得、介護施設での業務を媒体としながら、地元や社会に対して様々な角度や試みで貢献できる自分達を、より一層目指していく所存でございます。

 豊寿会創設の年からご縁をいただき、兼ねてより関係者各位みなさま方のご芳情を賜り、はや46年の歳月を重ねる事ができました。それまでの間に、数え切れないほどのご支援やご協力など、筆舌に尽くしがたい感謝の気持ちで溢れかえっております。いつも本当にありがとうございます。

  現在の年齢に至るまでにいくつかの街で生活をし、社会人となって今回初めて11年、地元の佐世保で過ごして考えさせられるのですが、同じ集合住宅に住む隣人の方や、ほんの半径10数メートルの範囲で日常を営まれていらっしゃるご近所の皆様でさえ、生活の気配はすれども、下手をすれば年に数回ぐらいしか互いに顔を合わせることがないという現状の上、この広い世界のあまたの国々や地域の中で、はたまた佐世保市内でも数多く建ち並ぶ介護施設の一端であり、権常寺町の一画を足場にしている当施設にゆかりを頂けた出会いに、なにか不思議な運命の交錯を感じつつ、えも言われぬ万感の想いが込み上げる時があります。働き手側の袖の触れ合いもしかりですが、幅広い年齢層、多様な環境、境遇、生活歴を経てこられた入居者様たちが、一堂に会す場所に携われている自分を、とても幸せに感じている次第です。

  令和元年から急速に世界中で感染が拡大しているコロナ禍の真っただ中に加え、今年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻。それらの事象に関連し、甚大な被害を余儀なくされた地球規模での混沌とした日々。多岐にわたる職種や文化面での不安定な調和。多分、いま僕たちは数世紀後に振り返っても、かなり際立った輪郭の出来事の最中に生きているのでしょうね。

  泣き言や不安を口にしても、時は無情に流れて行きます。幸いにも公私共々ポジティブな仲間達に囲まれ、おかげ様で身を立てさせて頂いている自分自身と仕事場。今の時代をなんとか切り抜ける事だけに収まらず、先人の方々の多大なご奮闘により、これまでにめざましく発展してきた各産業に経済、受け継いできた伝統や技術など、人類の叡智を次の世代へと継承できるように。ではなく、そうして行くことを強く願う今日この頃でございます。

                                          


               改めまして豊寿会一同より、皆様からの引き続きのご愛顧のほど、心よりお願い申し上げます。

     

令和410月𠮷日 にゃんこ部屋管理人